いずれのときに

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早稲田大学演劇研究会『大人のふりをするように』

=早大劇研企画公演= 『大人のふりをするように』 -作・演出 青根智紗- 《4月20日(木)〜4月23日(日)》 予約▶︎ “いるようでいらないもの、埋めた。”

 

 二人芝居と銘打って行われたが、登場人物は二人ではない。物語を展開する役回りは四席、その中の二つの役割を二人の役者がそれぞれ演じたに過ぎない。演じる役者が居ない役割には、何故配役が振られなかったのか、またどのようにして物語の場面に彼らを現出させるのか。

 早稲田大学の演劇サークル、主要なものを六大演劇サークルと呼ぶそうだが、劇団木霊と、演劇研究会の二つは小屋持ちと分類されている。それは、大隈講堂の裏手に稽古用かつ上演用の施設を独自に持っている事に由来する。今回はそこでの観劇となった。

 見下ろす形で客席が組まれ、舞台は下部の机や棚などが設けられた生活空間と、上部の鉄骨で組まれた簡素な空間の二つに分かれており、要所で上部の空間が様々な形で用いられる。

 

 話の筋は兄と妹、二人のテンポの良い掛け合いが特徴的な会話劇で、何処か過剰なまでに仲の良さが強調されている。テストの点数などの他愛の無い会話がなされ、タイムカプセルにそれは埋め、六年後に開けようと約束し、そしてそのまま六年の時が過ぎる。六年後、兄は就職活動の真っ只中、妹は大学受験に備えて、変わらずに仲の良いままの会話劇が続行されるが、先ほど指摘した過剰さが実は不穏さであった事が徐々に描かれていく。

 役者不在の父と母、それが残された主要な役回りである。演じられるのは兄弟ではあるが、この話は破綻した家族の物語なのである。親から見放され顔を合わせれば小言ばかり突き刺される兄と、親の期待を一身に受け選択の自由を剥奪された妹。例えば、兄が居ない中で三人で寿司を食したり、妹は総合大学への進学を望みながらも医大への進学を半ば強要されていたりする。可愛がられる子とそうでない子、この必然性は描写されないが、ときに摩擦が生じながらもそれでも兄弟は共に進む。

 そして、この父母との対話を兄あるいは妹は、客席の方を向きながら行う。一人芝居では頻繁に見られる、想像上の相手とのダイアローグ(の体裁で行われる一人語り)。使い古された家族のすれ違いの話で、その内容は容易に不在の父あるいは母の返答を補完出来てしまう。この『出来てしまう事』と、そしてそれが客席に向かい行われている事、これが終盤の演出効果への布石となる。

 

 終盤、父親と娘の近親相姦が明かされる。もしこの劇に瑕疵があるとすればこの部分である。そこまでする必要があったのか、物語の展開上の疑問が最後まで残った。扱われるテーマが過激である事は問題では無い、そして表現においては原則何を表現しても良いのだが、必然性が感じられないのだ。それが過激であればあるほど、丁寧に扱わねば作品に悪性のしこりのようなものが残り、歯がゆく思う。

 しかし、もっとも魅力的な場面もここであった。先に舞台の構成や客席の方を向く対話について述べたが、この事件は父親の部屋のドアを開ける兄により発見される。役者不在の父は我々観客席の側におり、兄はこちら側の扉を開ける。妹もこちら側で惰性的な情事を行っている最中であるのだが、その妹が舞台の上部の空間で煙草を吹かしているのだ。

 観客席からみるフレームとしての平面的な舞台が二分割され、煙草を吸う妹、かたや父との情事に暮れる妹を発見する兄という場面が演出される。これは、舞台上の時間のズレである。今まで単線的に過去から未来へと進んでいただけに、この演出が、演劇に固有の表現として強く印象に残り、この場面だけでも観れてよかったと筆を運び契機となるほどであった。

 物語はそれでは終わらない。

 この家から出よう、破綻した家族を棄てて、仲の良い兄弟として二人で生きていこう。二人はそう決意する。新たな門出を祝して、昔のようにタイムカプセルを埋めよう。外が嵐であっても構わない。大きな黒いゴミ袋を持って、雨の中外へと出かける。(劇場の舞台上に大量の水、雨を模したものが落とされていた事も追記しておく)

 その後暗転、ラジオで夫婦のバラバラ死体が発見した事が告げられる。明点すると、顔面が血で染められ虚ろな目をした兄弟が現れ終幕となる。

 

 この演出に、まんまとやられた。身の毛がよだった。それは絵面や内容ではなく、客席側に執拗に語りかけて兄弟の眼差しによるものであろう。演じる彼らの視界に、我々観客は移ってないだろう。しかし、眼差しには架空の父母同様に我々が映っている。欠如した会話を父母の側に立ち補完していた我々は、そのまま惨殺される父母に置換されるのだ。

 この二点より、大変興味深い舞台であった。