いずれのときに

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これは演劇ではない 青年団リンク キュイ『プライベート』/あと雑感

thisisnotthetheater.com

 

 これは演劇ではない、青年団リンク キュイ『プライベート』、駒場アゴラ。

 

 非常に興味深かったので、感想と連想されたことについて書く。

 開演とともにアフタートークが始まる。それまで薄暗い舞台上でスマートフォンを操作し、時に談笑し、音響装置から流れる人の話し声に反応を示していた役者たちが、始まりを告げる”終演の合図”とともに立ち上がり、客席へ向かい挨拶を始める。

 観客がそれを拍手で迎え入れたのがなんとも印象的で、役者が戯曲家の綾門や演出家の橋本として演じ、アフタートークのようなものが行われるのだが、そのキャラクターが複数のアクターにより演じられ、何人もの綾門、橋下が舞台上に表れる。(ここで客席から質問が飛んだ事もあったそうだ)

 壊れたビデオテープを再生するかのように重なり混ざる言葉、同一の内容を再生するはずが、個々の語りのスピードに差異がある。舞台上には複数の「綾門」、複数の「橋本」が現れ、恣意的に舞台についての思いの語りを積み上げていく。

 

 そのまま稽古初日の顔合わせへと時間は遡行し、そこから出来事を再構成するかのような演出が取られ、稽古を欠席した者は、その日どこで何をしていたか、あるいは稽古場の様子を推測し描写する。「稽古を再現する」という枠組みの中で「正しい再現」と同時に推測という「曖昧な再現」が描かれる。もちろんこの枠組みをとり払えば、正しい再現という見立ても取り外されるが。

 キュイは今回初めて見たのだが、青年団リンク キュイ『プライベート』が出来るまでの記録を演劇にした”ような”作品、という表現は、正しくはないだろうが、少なくとも全く異なるという事はないように思う。

 

 終盤に差し掛かり、稽古場で劇作家の綾門に扮した役者から、「タイトルをプライベートではなく、パブリックに変更します」と伝えられる。

 結局この変更は有耶無耶のまま進んだとも描写されるが(そもそも、『これは演劇ではない』というプログラムの規定で、タイトル変更が認められてなかったのだろう)、こちら側としても観劇中にずっと考えていた事だった。

 そもそも上演はパブリックな行為だ。プライベートになり得ようはずがない。だからこそ題材として面白い。

「プライベートではなにをされいるのですか?そう問われると、今以外の状態全般についてがプライベートになる。他の人からそう問われれば、その状態以外がプライベートになる」

 このような趣旨の言葉が述べられたが、劇中に抱いていた疑問のようなものが端的に表された一節だったように思う。(原文は確認していない。曖昧な記憶のため、かなり異なるとは思う。)

 一般に、このような文脈で用いられるプライベートとは、仕事とそれ以外という区分けで、仕事以外を指す場合が多いのだろう。学生の身としては、劇中に語られる状況に近く、日常の中で公私の区分けを意識する事はほとんど無い。プライベートでは本を読んだりしており、それ以外でも本を読んだりしている。(学生という身分は公的なものだが、その属性が身体から切り離される事は殆ど無い)

 役者というのも、学生の日常的な意識と近しい感覚を共有しているのかもしれない。ではそれ以外の企業に所属する人にとっては、

「プライベートではなにをされているのか?」

という質問は、果たしていまだに有効なのだろうか。

 

 労働に関する意識調査を見れば、労働へのネガティブなイメージを持つ者は多く、この場合は労働を切り離すための公私の区分は有効で、「プライベートを充足させるための労働」という意識が想定されるように思う。

 しかし、ネット上で散見される「新しい労働」の形、とりわけ労働を労働と捉えず、クリエイティヴな活動としての経済行為といった枠組みを好んで用いる層はどうだろう。仕事と仕事以外という区分をそもそも必要としない、そのような振る舞いをネット上で発信し、既に一定以上の影響力を彼らは持っているように思う。

 この潮流は、パブリックと名指されるような公的な空間を想起する事が困難な状況をも作り出すのではないだろうか。上記の「新しい労働」の形は、日本の企業組織の家族的経営のもたらした労働体系の負の側面の否定により支持されている。技術の変化は消費者の変化を促進させ、当然の帰結として労働の在り方の改変も望まれる。無駄な情報のやりとりなく、即時即決で仕事を進められる裁量が欲しいという、そのような意味では真っ当な欲求であり、全面的にかは分からないが、この潮流は続くだろう。

 ビジネスの形が変われば、生活も変わる。従来の企業組織は労働を通して、生活の形も規定していた。終身雇用で家族を養い、女性に家の事を任せる。また、同一企業の仲間、あるいは類似の組織文化を持つ者達、それらの総体として、一つの公共が想像されていた、という事だ。

 「新しい労働」の形が働き方を変革させるという事は、企業組織により副次的にもたらされた公共を瓦解させていく事を意味する。それは歓迎すべき事ではあるが、代替品が無いという別の問題も浮き上がる。

 

 観劇中に抱いていた大きな関心ごとの一つは、このようなパブリックなものを想像する事が難しい状況、それが近年、より増大している事だった。

  題名にある『プライベート』とは、上演を準備/本番という二項で考える際に、本来ならば表に出る事の無い準備、つまりは稽古風景と解釈出来る。

 電車内での化粧に人が違和感を抱くのだとしたら、その本質もここにある。装いを準備/本番と区分けし、準備段階を見せ付けられる。自分ではない者の為の本番に向けた準備であり、感受性の強い者は名も知らぬその人から疎外された気分を味わうのだろう。

 この疎外から回復する為に、人はわざわざ”公共”という概念を持ち出して批判を展開する。この場合、公共概念は、共有空間での親密では無い他者との規範という意味合いで用いられるが、その根拠となるものはなんなのだろうか。

 先に上げた労働の形式の変化は、原因ではなく状況を促進させる一つの結果に過ぎない。公共について考えるには、その空間になんらかの形で所属する構成員について考えること、社会について考えることにも通じる。

国民は(イメージとして心の中に)想像されたものである。というのは、いかに小さな国民であろうと、これを構成する人々は、その大多数の同胞を知ることも、会うことも、あるいはかれらについて聞くこともなく、それでいてなお、ひとりひとりの心の中には、共同の聖餐(コミュニオン)のイメージが生きているからである。

 ベネディクト・アンダーソンは『想像の共同体』の中で上記のように述べた。日本人ならば、に対応する必要条件はなんだろう。そもそもこの問い自体が現代では無意味だろう。また、SNSでの面識の無い人たちの情報に触れる際、顔の見えない同胞の一意見を、無意識に全面化してしまうような事は無いだろうか。Twitterのタイムラインを一つの”社会”として認識してしまうことは多くの危険を孕んでいる。確かにそれは人々の生の声ではあるのだが、意見の偏りを持った者ほど情報を発信するし、またすべての情報は偏っている。

 開演前のスマホ操作は上記を示唆している、と言うと流石に深読みし過ぎだが、観劇中また終演後も、『プライベート』を通して、公共とはなんだろうという問いを抱え続けている。

 

 話を演劇に戻す。稽古場の再現という体裁を取った『プライベート』は、ドキュメンタリー作品の”ような”演劇とも言えるだろう。

 そもそも演劇においてドキュメンタリーは可能なのだろうか。

 ドキュメンタリーが出来事の中立的な記録を指向するのであれば、不適切だろう。単に記録するのであれば他の媒体の方が適当であり、また映したものをそのまま再生する事が出来るという点も、中立性を担保しうる。この場合のドキュメンタリーは、創作が反対概念として措定されている。

 また舞台上にて様々な要素を用いを上演する事は、作為的、あるいは無意識で何かを選び、そしてなにかを捨てる事に他ならない。ここで中立性を謳う事は不可能となってしまう。

 ではドキュメンタリーは演劇では不可能なのだろうか。

 そうとは言い切れない。ドキュメンタリーが客観的ではあり得ない、むしろ極度に主観的なものから構成されていると、森達也なら述べるだろうし、マイケル・ムーアや想田和弘もそうだろう。題材選びから撮影、編集に至るまで、人の意思が介在しない事の方が少ない。この場合のドキュメンタリーは報道(に期待される機能)が反対概念だろう。 

 中立/客観的な報道などありえないという声もあるが、ここからは価値や認識の話になり大いに脱線し、筆者の手には追えないので、ここで一先ず区切る。ただし、この”価値”や”認識”こそがドキュメンタリーを考える上で重要な点ではるように思う。

 創作と報道、二つの反対概念を持つドキュメンタリーの本質とはなんだろうか

 それは、記録としてなんらかの形で再生が可能な事だろう。重要なことは、そこで"なに"が記録されており、そして"なに"が再生されるのか、だ。

 早回しや多重露光を連想させる演出は、このような再生というイメージと合致しており、更に再生の失敗を想起させるものだった。これにより虚構性が強調されたように思う。決定的なのは、実際の稽古風景とされる映像が流され続け、演出の橋本清が一定の距離を持ちながらも舞台上でなにかを演じ続けていた事だろう。(そこで語られる極度に個人的な事柄の強度も注目に値するが、もののついで触れるには気が引け、ただでさえ字数が偉いことになっているので今回は触れられない。)

 そしてこの虚構性は、「これは演劇ではない」という企画名に返って来る。劇団は”演劇”を作り、そして観客はそれを観に来ているだけで、虚構か事実かという事はそもそも問題とされていないのだ。

 

 パブリックな舞台を通して『プライベート』と題された演劇を再生する。ここに虚構と事実、また私的な事柄と公的な事柄が入り混じり、また公私の区分では図りえない個人的な嗜好が挿入される。法的あるいは社会的に"侵害"される個人の権利が、舞台上だが枠組みの外から到来し、観客に耳を塞がせるという演出を持ち、二度目の終劇を迎える。

 演劇を観ながら、舞台の外の出来事について思いを巡らせる観劇体験だった。