いずれのときに

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地点、『忘れる日本人』。サンプル、『ブリッジ』。dumptype、『S/N』。

2017/7/24

地点、『忘れる日本人』に見られる境界線について

 

「夜の暗さに人間が耐えられるのは、あちこちに星の光や電灯の灯があるからではない。やがて朝が来ることを、信じることができるからだ」

 

 現代演劇の潮流の起源を、1960年代の小劇場を中心としたアングラ演劇に見たとしても、その時代背景、そこにある生々しい社会、それとの関わりを考慮にいれずしてそれを語る事は不可能であろう。演劇と社会は不可分にある、これは自明のようで実は演劇の強烈な特性であるように思う。

 それは現前する身体の呪縛性のようなもので、仮に古代ギリシアに由来する古典作品を演じようとも、上演する時代に生きる役者の身体性、また観客の身体的知覚を切り離す事は出来ず、「オリジナルの忠実なる再現」はそれだけで一つのテーマになりうる。

 今回の試論では社会との密接な関わりを前提とし、現代社会に生きる劇作家の作品を論ずる。ここで問題とする視点は《内と外》、または《境界線》である。

 

 2017年4月にKAAT神奈川芸術劇場で上演した地点の『忘れる日本人』について論じる。地点と云えば、イェリネクやマヤコフスキーチェーホフブレヒトなどの戯曲を大胆に再構成して、発語と独自の身体表現で演劇空間を作り出す作風と言えば、少なくとも間違いではないだろう。昨年末の大隈講堂で行われた『ロミオとジュリエット』は、演劇未体験の学生たちに大きな衝撃を与えた。

「私たちの見知ったロミジュリではない」「意味がわからなかった」

 そのような感想に触れるたび、「劇場とは作品について議論する場所である」と説いた平田オリザの言葉を思い出す。演劇とは事件である。消費社会の主力商品であったウェルメイドな物語に触れる姿勢を、まず問うているのである。

 『忘れる日本人』は新進作家による新作戯曲である。タイトルが持つ磁力も相まって、この同時代性を見落とすわけにはいかない。

 舞台装置は、陳腐なビニール紐で舞台の境界線を大きく囲み、その中央に手の込んだ木組みの木造船が置かれている。その木造船の下から、胸元に日の丸を付けた7人の「日本人」が這い出てきて、物語が始まる。すり足[i]で身体を左右に振りながら、バラバラにされたテクストを独特な発語で空間に響かせ、時折皆で「わっしょい」とリズミカルに唄う。

 中盤の演出で指摘すべき所は二点あり、まずはビニール紐の境界についてである。断片的な台詞が紡がれ舞台が展開されていく途上、先に指摘したビニール紐は舞台の境界ではなく、「なんらかの境界」である事が明かされる。その境界を飛び越えると水中を思わせる音響が鳴り、身体は水の中で漂うクラゲのような振る舞いを演じ、他の役者によって境界線の“内側”へと引き戻される事によって劇へと復帰する。

 もう一点は胸元に貼られた日の丸についてである。突如脈絡もなくそれが外されて、また一人、また一人と日の丸を外し、そしてそのまま木造船に貼り付けられる。彼らの衣装は、サラリーマンであったり漁師であったり、あるいは沖縄の民族衣装のようなものであった点も読解の鍵となろう。つまり、“日本人的のもの”の表象である。

 終盤で、とうとうその木造船が動きだす。役者たちが神輿に見立てて担ごうとするのだ。しかし、7人の役者の配置の偏りの為にうまく持ち上がらない。そのまま1人の役者が重い木造船の下敷きになり、悲鳴を上げ、慌ててスタッフが助力に入り、更にそれでも足りずに客席へと助力を乞うと言った筋書きである。その後複数人の観客の力を借りて、見事日本国旗が貼られた神輿は担がれ、「わっしょい」の掛け声と共に右へ右へと舞台上を旋回し大団円を迎える。

 

 考えるべき要素は二点ある。一つは何が担がれていたのか/国旗が貼られた木造船は何に見立てられていたのかという点、もう一つは作品の中にあった二重の境界線だ。

 担がれていた日の丸の貼られた木造船は、我々が背負う“日本人的なもの”を指示しているのではなかろうか。貼り付けられた国旗は、一見すると国籍を破棄したようにも解釈出来る。しかし、作中で最も印象に残った言葉に、「繰り返さないが、一年後には、忘れないに変わっていた」というものがあった。水中を漂うような演出を絡めると、あの震災を想起せぬ日本人がどれだけの数が居ようか。そして、その記憶とどのように折り合いを付けようか。一人一人が胸に抱くのではなく、一つのメモリアルな象徴として“皆”で背負う、すなわち“日本人的なもの”を担保する歴史だったのではないだろうか。[ii]

 となると、たんに国籍を破棄しているのではなく、国民性といったような象徴的な何かを、皆で協力して担ぐのだ。そしてここですり足にも意味が回帰する。すり足とは重いもの複数人で運ぶ時に見られる、特徴的な動作なのである。

 皆で背負うnationの象徴として神輿、しかしもう一つの問題がここにはある。ここでいう「皆」とは全てを意味しない。ここで意味するのは、境界の内側に居る「皆」にすぎない。そして、この「皆」は境界の外側に排斥された他者を作り出すものである。その他者から見て、そこで背負われた歴史が必ずしも好ましいものとは限らない、そんな問題がここにはある。

 二重の境界線は、一方では外に出る事が出来ない境界としてのビニール紐であり、もう一方に客席と舞台の間に設けられた第四の壁である。この第四の壁が物理的に破られる事によって、物語の目的であった木造船の出航は成功するのだが、これはあくまで舞台上での筋書きに観客が乗ったに過ぎない。地点という劇団だからなし得た、ただそれだけに過ぎない。協力し共に木造船を担ぐ観客と、そもそもその種の観客参加型の演劇を拒否するような観客、またどちらでも無く静観する観客と言った幾つかの層に客席が分断される。ここでの三浦の主張は、境界を打ち破って境界なき世界をコスモポリタニズムの精神で皆で生きようといったものでは決して無いだろう。

 

 話を敷衍する為に、現代社会について概説する。

 グローバリズムの流れは一部の先進国に富をもたらし、不均衡ながらも経済的にはそれなしには成り立たぬ”世界”が作り出された。世界恐慌後のブロック経済が大戦への前史だとすれば、それを避ける為に経済的な基盤で世界/先進国を拘束する事は道理にかなっていると言える。しかし、先進諸国だけを見ても、その綻びは大きい。イギリスのEU離脱、トランプ大統領の誕生など、枚挙に暇がない。このような流れはひとえに、アンチグローバリズムの潮流、また自国民の利益を守る事を優先する思想と言える。[iii]つまり、世界を内外に分けて内側の結束を強めようというものだ。そしてそれは、外側を排斥する事とほぼ同義と考えて良い。カール・シュミットの友敵理論が近年再注目された事もその証左と言えるだろう。

 

 上記のような問題意識を持ち、三浦基が演出を手掛けたのは明らかであろう。そうすると、日本国旗の強い記号性も異彩を放ち、外部を受け入れながらもその共通善を前提として受け入れぬ者へは開かれた扉はかえって排斥の力学を持つように機能する。

 一緒に神輿を担ごうよ、これを戦前の大東亜思想、八紘一宇の思想に還元するのは飛躍だとしても、非常に示唆的な演出ではある。地点が提示した舞台に共感を示さない者には、そもそもその扉が開かれてはいないのだ。

 

 この公演の二ヶ月後、同様にKAAT神奈川芸術劇場で上演されたサンプルの『ブリッジ』にも、同様の問題意識が見受けられる。[iv]

 紙幅の都合で内容を簡素に要約するが、新興宗教の教団の十周年記念式典で活動を振り返っていた所、過去に性犯罪で捕まった元信者が帰ってきて、改めて教団に入れて欲しいと懇願、許可するも、後述する理由で他の女性信者が教祖を刺殺するといった筋書きである。

 刺殺の動機となったのは、「元信者を教祖の息子、擬似的な親子関係にすれば再犯しないのでは」という提案を教祖が受け、「自身とは教義により夫婦になってくれなかったのに、元信者とは特別な関係になるのか」という女性信者の嫉妬に由来する。ここにも、宗教共同体の中にもう一つ、家族的関係という境界線が見られる。そもそも宗教共同体が家族であり、そこにもう一つの線を引くのは更に内外を作る事を意味し、その女性信者には矛盾に映るのだ。

 観客は十周年記念式典の参加者として、舞台上の役者から再三に渡り語りかけられる。そして、元信者もその客席の側から登場し、刺殺された教祖は退場時「やっぱここに線引かないとダメか」と、嘆き終劇を迎える。

 ここでも明確に境界線が引かれている。宗教共同体という強い集団性を持つ空間で、和やかなムードで進みながらも、外部からやってきた元信者によりその秩序が撹乱され、内部の理論が破壊されるのである。

 

 同時期に上演された同時代の作家による作品に共通して見られる境界線の質的な違い、三浦は境界線を国家のboundaryに見立て、一方で松井は共同体の境界線と、更に家族という線引きを用いた。そして、外側=つまり客席からやってくる存在が、一方で助け舟でありかつ賛同者(そしてその裏に非賛同者を浮かび上がらせるもの)であり、もう一方ではそのまま破滅を齎す使者であった。

 

 このような問題点をかつて指摘した作品として、dumb typeの『S/N』を思い出さざるを得ない。性別、国境、恐怖が消える事を夢見る、その音が今尚強く響いている事は、20年かけても変わらぬ現状への嘆きであり、かつ終わる事のない反省をそれでもなお諦めないという意思の叫びとも読み取れる。演劇に固有の表現、演劇性を背負う二人がこの文脈を見落としているとは到底考えられない。

 思えば、地点での日の丸は可視化された記号であった。Japanese、male、female、homosexual、HIV+、そしてPeopleと言ったような。

 Signalの象徴性、社会で優位となり駆動するコードは、その成員として押し付けられた要件を積極的に否定する者にとってはNoiseとして表れ、暴力的に精神を蝕むであろう。

 そもそも、舞台とは鋭利な内外の区別の上に成り立つものなのだ。そうでなければ、舞台上に人が入り乱れプログラムの遂行が不可能となってしまう。

 しかし、だからこそそれを打ち破る術も、演劇は内包している。それを映画や文学は持つことが出来ない。前文に挙げた、現前する身体の呪縛性を思い出して頂きたい。

 なにも舞台へとなだれ込めと主張している訳ではない。舞台上の今と劇場の今、そして劇場の外の今、これは一つの線で結ばれている。そして、その場所に立つ者たちは、演劇によりもう一つの線で結ばれる。

 線は区別、分断の為だけに結ばれるのではないのだ。

 

 それでも、私は夢見る、あらゆる”境界線”が消える事を。そしてその共鳴を。“私たち”は夢見る、いつか目が覚めてそこに私たちが理想とした世界が広がっている事を。夢の世界=虚構へと逃げ込むのでは無い。その虚構が現実を蝕み転倒させる、劇作家が見た夢とはそれを指すのではないだろうか。そしてその場所に、それに共鳴する観客が生まれる事を。

 

 

 

[i] 地点は、身体行為の反復→解放による快感という図式を頻繁に用いている。これは太田省吾の水の駅に見られる把手の壊れた水道の緊張→弛緩に相似している。三浦は過去に太田省吾のテキストを戯曲化している。

[ii] 作中繰り返された「わっしょい」という言葉はの語源を「和を背負う」に見ても良いだろう。

[iii] 都民ファーストの会が歴史的大勝利を遂げた国に恐怖しか覚えない。そしてそれは国民ファーストとなるのだろう。

[iv] 三浦基と松井周、ここでは論じないが岡田利規も皆1970年代前半の生まれである。6月のチェルフィッチュの公演も、震災が直で関わる作品であり、部屋の内部で進む時間と、外部との対比が見られた。