いずれのときに

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ギィ・ジル、『反復された不在』Guy Gilles.Absences répétées.(1972)アンスティチュ・フランセ東京

ギィ・ジル、『反復された不在』Guy Gilles.Absences répétées.(1972)アンスティチュ・フランセ東京

《ギィ・ジル特集》『反復された不在』


軽々しく使いたくない言葉だが、美しかった。何にここまで心惹かれたのだろう、また観たいという感情すら湧かない程に、惹きつけられてしまった。粗筋を書こうと思えば簡潔に書き表せるが、そのようにしてはこの揺れが損なわれるであろう事を恐れ、つらつらと綴ることにする。

ジャンヌ・モローの声が、作品全体に宿っている。」

上記のジュリアン・ジェスティールの言葉にある通り、映像の至る所にその歌声が垣間見える。作品として描かれていない部分には、単なる伝聞でしかなく鑑賞体験の外部での出来事のため言及はしたくないのだが、それにしてもこの評は見事である。
また、登場人物の関係性が不明瞭で、この作品以前に物語世界内でなにか重要な出来事が起こっていた事が強く示唆されており、原作小説の一部を切り取ったかのような描かれ方なのだが、"キャラクターの関係性"も"主人公フランソワ・ノレの過去に何があったか"も些事でしかない。
このように、作品では無く作家本人の物語と、物語内世界で描かれなかった物語という、二重の外部を持っており、まさにこれらの"痕跡"が、作品全体に宿っているのだ。このような構造は虚構においては決して珍しい事では無いのだが、1972年という時代性も相まって、作品全体を覆う"痕跡"こそがこの作品の魅力のように思う。

 

この映画は「人生はポエムだ」という言葉で始まり、「人生はポエムじゃなかった」という言葉で終わる。
いかようにも解釈は可能だが、韻文と散文、同時に"声"という観点から考えてみたい。

ジャンヌ・モローの歌詞や、作品内で映し出される手書きのテクスト、またフランソワの心内表現など、詩的と呼ばれるような言葉が散りばめられ、キャラクター同士の会話もペダンチックで抽象的である。端的に言って、何を伝えようとしているのかが明確では無く、行為そのものを目的化したような会話が耳を撫でる。

散文を”他者に伝える事を第一義とした形式”と表現すればお叱りを受けようが、韻文とは形式そのものが目的であり、業務的な伝達を韻文で制作する者は少ないという比較は有効だろう。(だからこそ、韻文でこそより伝わりうるものもある)
「人生はポエムだ」、この台詞を発したフランソワは他者を強く求めるがゆえに常に孤独であり、一方で「人生はポエムじゃなかった」という台詞を残したギィは、物語を締めくくる役割を担う事となる。

言論と活動は、このユニークな差異性を明らかにする。そして、人間は、言論と活動を通じて、単に互いに『異なるもの』という次元を超えて抜きん出ようとする。つまり言論と活動は、人間が、物理的な対象としてではなく、人間として、相互に現れる様式である。

Arendt,Hannah,1958,『Vita activa oder vom tätigen Leben』(= 1994,清水速雄訳『人間の条件』筑摩書房.)

アレントの引用を踏まえれば、ヒトが社会的存在である人間たるためには上記のような他者との了解を必要とする。「秘密とは、理解させられなかった事だ」というフランソワの言葉にもある通り、人生をポエムとするフランソウは了解を基準とする相互行為の失調が示されている。
また、"声"という観点からも同様の事が言えるだろう。冒頭にジャンヌ・モローの声を引いたが、フランソワにとっての声とは内なる声を指し、心内表現という形をとった思考や、あるいは映し出されるテクストもそうだ。人がエクリチュールを読むという事は、"自分の声”を聞いているのだ。
思考の辿る旅は我々が想像するように明晰なものではない。言葉たちがその場所を押しのけ合い、ようやく椅子に座ったかと思えば全て削除される事も少なくない。他者への伝達の必要性が無い情報は(そもそも情報ですら無いのだが)、いつだって"秘密"という形式をとるのだ。

 

ではなぜフランソワは詩的言語を選択するのだろうか。作品冒頭、勤め先である銀行から repeated absences を理由に解雇される。そこで上階から下方を見下ろすノレの目線の先には、規則的に並ぶデスクで機械的に働く人々がはっきりと切り取られていた。
また、フランソワの性的嗜好バイセクシャルであり、かつポリアモリーの傾向も見られ、また少年愛という嗜好を持つ事も関係しているだろう。労働も性的嗜好も、1972年のフランスという時代背景を考慮に入れる必要があるだろう。

労働はともかくとして、愛の形は現代においても、むしろ現代だからこそ複雑な様相を呈しており、愛というものを最小限の言葉で表現するのであれば、「今生きているわたし」であり、それは出生ではなく育児を指す。他者の保護下に無い状態で幼少期をやり過ごす事は困難で、そしてだからこそフランソワは未成熟な少年に自己の姿を重ね、そこに愛の残照をかろうじて見出すのである。

労働から、また恋愛活動という領域からも疎外される。誰のものかもわからない目元がクローズアップされた、視線のカットが反復される。
これには逝去したと思われる友人たちを指し、彼らの目に僕たちはどのように映るのかという言葉を受けて発された、「死者の瞳に僕たちは映らない」という言葉が対句となるだろう。全てを拒絶するフランソワにとっては自分以外が死者であり、また自分こそが死者である。

 

徹底して孤独であった、フランソワ。 

パリから逃避しようとするフランソワとの会話の中で、ギィは恋人に対して「逃げる人間を愛したら、どうすればいいと思う?」と問いかける。彼女は少し悩んで

「窓と扉を開けておくわ」

 という言葉を贈る。



 

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